大日本茶道学会

令和4年6月:『礼記』の思想

「茶人は『礼記』を読め」と、仙樵居士は主張しました。

「洋の東西を問わずに、人間と動物の区別をどうつけるかが問題で、西洋では、理性の有無を、そして東洋では、礼の有無をそれに求めていた」と私も『礼記』の一節を受け売りしたこともあります。しかし、『礼記』の問題をそれだけで済ませて良いわけではないと思いつつ、それ以上は手が出なかったのが現状です。

 日本中世史が専門で、切れ味の良い京都論を展開されている桃崎有一郎氏が、『礼とは何か』(人文書院)を昨年出版されました。

「現代日本人が《礼》を理解し、礼的所作についていかなる立場を表明するか(どう振る舞うか)は、<現代日本人にとって《礼》とは何かを知ることから始めなければならず、それは遡ると、結局、日本に移入された中国の《礼》思想を知る必要があり、そのためには《礼》の遍歴をとたどらねばならず、それを突きつめると、まずは《礼》が生まれた段階での姿が先決、ということだ。」

 と日本中世史家が古代中国の思想を追求する理由を述べているのは、仙樵居士が『礼記』にさかのぼる必要を説いたことをかみ砕いているようです。

 氏は、《礼》思想を、「個々人が、この世界全体の摂理を視野に入れて、理性によって物ごとを洞察し、最適な時に、最適な人が、最適なことを行うべきだ」という思想と整理されました。

あえて、茶席での振る舞いに限定すれば、席に入る時に上手の足から入る、という仙樵居士の教えは、全体を視野に入れて、判断を下すという実践を促しているわけで、この席ならば右と覚えて、判断を停止させる運用に留めてはならないということを再確認しました。故実を学ぶのはその場に適切な規範として呼び起こして活用するためです。

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