大日本茶道学会

令和4年1月:善でも悪でもない

この世界はどのように始まったのか、という代表的な考え方をいくつか紹介され、自分はどの考え方に賛同するかというレポート課題が与えられましたのは、 中学三年生の倫理社会の授業でのことでした。この課題に、沈潜したのが、私が哲学好きになった始まりのようです。

 何しろその時は、「世間の人は、このような根源的な問題に明確な答えを得られないままで、なぜ平気な顔をして生きていることができるのだろうか。」と考えてしまいました。

 そんな疑問をいだいた人間に対して、原始仏典の中で、ブッダは、「毒矢のたとえ」を使って答えたといわれます。毒矢にいられ、苦しむ人を前にして、医者が、患者の身分、階級、弓の種類、矢の種類などについて分からない間は、治療しなければ、その人は死んでしまう。世界が永遠であろうと、有限であろうとなかろうと、人は現に存在し続けている。その人間存在の持っている根源的な苦悩に向き合うことが大切なのだというのがブッダの立場です。

そこから、仏教では倫理的価値を、善と悪だけではなく、「善とも悪とも記別することができないもの」として「無記」の3つに分けます。

善とも悪とも判断のつきかねることがこの世の中には存在する。わからないことはわからないとして生きていく覚悟を持つことが必要だ、ということが、「無心になれ」と説かれることの一つの側面なのでしょう。

しかし、「無心」と言われても難しい人間には、「無記」というカテゴリーを設けることで、簡単には判断のつかないものを、そこに納めて、一つの答えを与えたことにして、前に進んでいけるようにするそんな知恵がずっと伝えらえてきているのです。

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