大日本茶道学会

令和3年10月:客の麁相は

 松平不昧は、「茶の湯は稲葉に置ける朝露のごとく、枯野に咲けるなでしこのようにありたく候。此味をかみわけなば、独り数寄道を得べし。」(茶の湯は、稲葉に生じた朝露のように、枯野に咲いた撫子のようにありたいものである。この味わいをかみしめたならば、数寄とは何かがわかったことになる。)と『茶礎』で述べています。

『茶の湯名言集』(角川ソフィア文庫)で取り上げた時は、「言葉で説明できる性質のようではなさそうだ」といういい方でこの箇所の説明は曖昧にせざるをえませんでした。

『茶礎』では、「客の麁相は、亭主の麁相なり、亭主の麁相は、客の麁相と思ふべし」(客の失敗は亭主の失敗、亭主の失敗は客の失敗を思うべきである)という有名な言葉が続きます。

新型コロナウィルスの流行がはじまっていらい、私たちが、必要以上に、精神的圧迫を感じているのは、病気になっても、「お大事に」といういたわりの言葉よりも、「なんで感染したの」と叱責の言葉が飛んでくるような状況を感じているからでしょう。

「あたなは悪くありませんよ」といたわってくれる人に囲まれていると感じられる状況なら、私たちはもっと安らかに毎日を送れるのにと考えるのは私だけでしょうか。

「客の麁相は亭主の麁相」という不昧の言葉は、亭主に「あなたは悪くありませんよ」と客を受け止めなさいという意味になります。

稲の葉の上に朝露をみつけた時、また、枯野で撫子をみつけた時に心が和むように、茶の湯は、心が和むひと時を提供するものでなければならない、それが、不昧の言いたかったことではないかと考えるようになりました。

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