大日本茶道学会

【茶道コラム】第23回「完全ならざるところに」を追加しました

中秋の名月を眺めながら、〇というものは本当に完全無欠な姿として心に響きます。

それにひきかえ、われわれの身の回りにある物の形は、どれだけ変化に富んでいることでしょうか。

ひとつ一つの道具をどのように扱っていくかを習い、点前として、茶を点て、人をもてなします。諸手続きを滞りなく、間違えないようにと
真剣に所作をすることが素晴らしい茶人になることと考えているようにも思えます。

よくよく考えてみれば、薄茶器の代表を棗という言葉でひとまとめにしてしまっても、棗の形にもいろいろあります。

甲の大きなものでも、少し角ばったり、または丸みを帯びて居たり。蓋の深さもそれぞれ違います。茶入にしても、見た目通りに小さく軽い物から、
小さくてもずっしりと手ごたえのあるもの、大きくても蓋が小さい物など様々です。

つい、どのように持つのだという手つきだけに心が走れば、実際に手に触れた道具の形を感じることなく、とりあげたりしていることがあります。

「小さなものは大きく見えるように、大きなものはそれなりに扱いなさい」

これが、父仙翁が指導している際に良く使っている言葉でした。

拝見していると、茶入や茶碗などに伸ばした手は、物の形や高さとは関係なく、自分が持ちたい手の形をしていることがあります。

私たちの所作は、完全無比、機械、コンピュータが組み込まれたような正確さを望まれているのでしょうか。

そうではありません。きっと、扱う物の微妙な大きさや、形の変化になんとなく寄り添うように触れる手であったり、人の呼吸に合わせて
ちょっと間を取って合わせることのできる、ある意味で完全ならざる人だからこそ出来る動きなのではないでしょうか。

だったら適当でいいのか、といっても適当ではいけません。真摯に茶でもてなそうとする心の中にファジーな部分が望まれているのではないかと
思います。

暗記しながら、正確さを追い求めるのではなく、道具と触れ合うゆとりを持ちたいものです。

                                                                         

                                             教場長 田中 仙融 (平成29年11月発行 会報「えんじゅ93号」掲載)

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